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Yukio Ozaki and his daughter
("Yukio Ozaki and his daughter" Yousuf Karsh,1950)

2017.8.15

「選挙公報に見る、尾崎の覚悟」

 
8月7日より15日までの終戦の節目までの間、尾崎財団フェイスブックでは戦争末期の政治家たちに注目し、さまざまな観点からスポットを当てて参りました。

 

時の政治家は何を想い、何を発して来たのか。
本コラムでは、先の大戦末期における尾崎もうひとつの闘いについて触れます。
 
翼賛選挙の別名を持つ第21回総選挙における尾崎行雄を象徴する出来事といえば、連載の第一回でも触れた田川大吉郎の応援演説に端を発する「不敬事件」が一般的に知られています。
演説による逮捕は尾崎にとっても不当であると同時に、当初は予想だにせぬ、いわば不意打ちでした。
一方で、同選挙では応援演説以上に相当の覚悟をもって臨んだ出来事がありました。それが、今回紹介する当時の選挙公報です。
自身も「今回ばかりは危うい」と回顧録で語ったほどに、軍部の選挙干渉は凄まじいものでした。
それをはねのけて尾崎は当選を勝ち取るわけですが、時の政権と対峙するにあたり用意したのが公報の依頼文でした。
有権者の皆様には、当時の気迫を感じていただけると幸いです。
また国政・地方選を問わず、選挙に挑んだ経験をお持ちの方はご自身の公報と読み比べて頂ければと思います。

尾崎選挙公報(前)
 

三重県第二選挙区選挙人諸君に告ぐ
 
衆議院議員候補者
尾崎行雄
 
今日まで50余年間諸君の推薦によって、議員をつとめておる間に大分年をとりましたから、もう公の生活をやめ、余生を風月の間に送ってもよいのでありますが、ただ一生国事を目的に暮らした私としては、最後の御奉公をせないで、公の生活をやめる訳には参りません。
是非とも君国のために最後の御奉公を致したいのでありますが、それにはこれまで、一生を立憲政治のために送って来たのでありますから、やはり議員としてでなければ適当の御奉公は出来ないと思いまする。
その訳を簡単にお話をすれば、我が国の如く世界に類例のない有り難い皇室を戴いておる国柄に於いても、徳川時代、北条時代、足利時代等がありました。然らば下の人民の方はと云えば、斬り捨て御免の世の中に生存しておったので実に哀れはかなきものがありました。
かくて上は皇室の御悲運となり、下は人民の不幸となり、長く続いたために国家の発達は遅々として進まず、神武天皇以来2500余年へても全国の人口わずか3千万人ほどに過ぎなかったのです。
 
然るに今日は内地だけでも7千万人に増し、朝鮮、台湾を入れれば1億人に達しております。
また明治の初めには政府の歳出は3,4千万円に過ぎなかったのでありますが、今日は平生(へいぜい)でも20億円、今年の如く軍事費を計算すれば200~230億円になって、明治23年初めて国会を開いた時のほとんど300倍になっております。
実に明治以後の国運の進歩は驚くほどでありますが、これには内外幾多の原因がありますけれども、その内最も大切かつ重大なものは、明治天皇のお働きと考えます。
 
天皇には御即位の始めに当たって「万機公論に決す」と仰せられ、その他4条を天地神明に誓わせ給い、その後引き続いて非常の御苦心をもって憲法と皇室典範をご制定に相成りました。それがために人民の幸福安寧は確実に保証せられ、将来この憲法が存する以上は何人(なんぴと)が出ても、決して人民の幸福を害することは出来ないようにお定めになりました。
 
私どもはこの大御心(おおみこころ)を奉戴して、先輩および同志の人とともに身命を擲(なげう)って立憲政治の制定、立憲政治の発育に尽力し、進んで政党を組織し、選挙により多数の投票を得た政党に内閣組織をお命じになる様にすれば、皇室のためにも人民のためにも最も安全な方法と考えました。
然るにその頃の政府は我々のごとく政党内閣論を唱える者を国賊と罵って、帝室内閣と称する方法を主唱しました。
しかしその主唱者たる伊藤公(伊藤博文)や桂公(桂太郎)の如きも実行の末、その過ちを悟ったものと見えて遂に自分から進んで政党を組織し、その首領となる様になったのでありますから、即ちこの点において私どもは勝利を得て立憲政治の正しき道が漸次おこなわれる事になりました。
 
その結果世間では政党内閣を国賊と見ないのみならず、これを憲法の常道と称えるようになって、全国の大新聞でもみな憲法の常道を主唱するようになった。然るに悲しいことには政党の人々が段々腐敗を致しまして、ただ多数の投票を得、政権を握りたいがために不正の手段を施して、賄賂その他の悪事をなし、政党の候補者に多数の得票を集めるようになりました。それでは如何に多数であっても正しいものではございませんから、政党の組織者であったところの私は、内部から百方これに忠告してこの不正の手段を改めさせようと尽力致しましたが、不幸にして無力の致すところ、目的を達することが出来なかった。
その故に憲政会も政友会も皆その始めにおいては、私は組織者の一員となったのであります。
 
けれども、その為すところが私どもの目的に叶いませんから、これを離れて政党の外よりこれを矯正しようと思い、今の政党のやり方で多数を得たのでは、この上内閣を組織させる事は決して憲法の常道ではないのみならず、逆道である。
これを改めなければやがて政党は自滅するより他はないと頻(しき)りに唱えました。
けれども日本大多数の人々は私をほとんど気でも違った者のように考えて、憲法常道論を主唱しておりました。
その内に政党の信用は段々減少して、遂にご承知の如く今日は自分から政党を解散して、無政党の世の中になった。
しかし立憲政治が正しい政党なしで行われようとは私は思いません。こういう風にして段々立憲政治の発達が鈍くなって行きますると、あるいは多数を得た党派に内閣を組織させるような多数決は、民主主義であるからどうしてもこれを改めなければならん等と云う事を申す者すら出て来ました。
 
無論、万機公論に決すという以上は、多数決になる他はないのであって、それを民主主義であるから悪いなどと云う事は、全く憲法を理解せないものであるのみならず、その本文も読まない人々ではないかと思います。
また同時に日本の憲法論者は、多くは英米に親しいものであって、英米は自由主義の国であるから悪いなどと申しますけれども、これはまた驚き入った意見で、憲法を開いて見れば、第一章においては天皇の大権をずっとご規定になり、第二章においては人民の権利義務自由を保証されたもので、第二章のおよそ10ヶ条ほどは悉(ことごと)く人民の権利と自由を保証したものであります。
全国の選挙人たるものは憲法の条文くらいは一通り読んで、この折角人民のために自由と権利を保証したところの10ヶ条以上の憲法の条文を、反古にするような意見に賛成しては相成りません。
 
また、明治天皇には、憲法は不磨の法典であるから、将来改正しては相成らん、独り憲法おみならず皇室典範も改正しては相成らん、もし他日改正の必要が起こった時には、天皇みずから発案するか、あるいはその子孫をして発案せしめ、貴衆両院の3分の2以上の出席と、3分の2以上の賛成とを得なければ一字一句たりといえども改正することは相成らんぞと、憲法において仰せられているのみならず、附属の御詔勅においても仰せられております。
選挙人たるものはよく心得ておかなければなりません。
 
要するに衆議院議員の選挙というものは、我が国に古来おこなわれておる所の道と同じようなもので、きわめて公平に敵味方を全く同等の位置に立たせて、公平なる投票を集むることの出来るようにしなければなりません。
すなわち角力(=相撲)は同じように真裸でどちらも道具を持たないで勝ち負けを決めさせる。
しかるに従来おこなわれた所の選挙の内には、ややもすれば、この角力と同じように取らせなければならぬところの選挙に、他の方には四十八手のうちに許された手、すなわち憲法法律が許してあるところの弁論場裡において、大層間違った事があった。
万機公論に決すべしと仰せられた大御心は欽定憲法の大本である。ゆえに私は是非ともこの点に向かって最後の御奉公をしたいのであります。
 
この目的のために今回も老年をも省みず、選挙場裡に立ち成敗利鈍を問わず、諸君にご相談をする訳であります。

尾崎選挙公報(後)

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軍部の検閲をくぐり抜けたこともあり、過剰なまでの刺激はここには見られません。
一方で、行間を読み解けば痛烈なまでの翼賛選挙批判であります。終戦を迎えた時の尾崎は実に87歳。翼賛選挙時の年齢は84歳でありました。
 
 
終戦の節目となる本日8月15日は、全国各地で黙祷が捧げられることでしょう。不戦の誓いも述べられることでありましょう。
 
大戦で散華された幾多の御柱は、国を護るために戦われました。
その一人ひとりの想いに報いることはどういうことか。
そのひとつが、尾崎にの決意にも込められているように思えます。
 

2017.6.5

「ネット選挙の近未来」

 
昨年2016年は公職選挙法が改定され、選挙における投票年齢が従来の20歳から18歳まで引き下げられました。
さらに遡ること3年前、わが国におけるネット選挙が解禁、インターネットによる選挙運動が一部緩和されました。
その概要は総務省の関連サイトでも掲載されています。
 
http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo10.html

ネット選挙 ネット選挙
(画像は総務省ホームページ掲載のPDFより)

 
 
有権者に関する制限はメールを中心に残るものの、選挙期間中に候補者が自らのホームページやブログ、ツイッターなどの発信を行うことが出来るようになったのは画期的なことでありました。
その一方、候補者の観点が先行し、有権者にとっての利便性が置き去りとなっている現状を鑑みると、ネット選挙そのものには更なる加速が求められます。
 
咢堂・尾崎行雄は普通選挙の実現と普及に生涯を捧げました。
もしも尾崎が健在で、現在のネット選挙を目の当たりにしていたならば。
おそらく提言したであろうポイントを整理いたします。
 
 

(1)ポスター掲示板の電子化

選挙期間になると、街のいたるところに選挙ポスターの掲示版が設置されます。
あらかじめ選挙管理委員会にポスターの画像データを提出し、選挙管理委員会が運営する公式選挙ページにて全候補の画像を掲示すれば周知の公平性を保つことができるでしょう。

 
 

(2)上記に連動した、選挙公報の個別掲示

選挙公報の電子データ(PDFなど)は、すでに一部の自治体でもホームページへの掲載が実現しています。
その一方、全候補分のデータをダウンロードしなければ閲覧できないため、利便性の観点では疑問が残ります。
電子化されたポスター情報と同様、各候補者の公報を掲載すれば、紙媒体を入手できない有権者にとって比較選択の機会損失を防ぐことができます。

 

(3)政見放送のインターネット化

日本でYoutubeをはじめとした動画配信が本格的に普及し始めたのは約10年前、2007年頃からになります。
その間、自治体や衆参両議院、総理官邸などでも動画を活用した情報提供が活発に行われています。
選挙における政見放送も、そろそろインターネット化の波を捉えて良いのではないでしょうか。 

 

(4)いずれの掲載および配信も、スマートフォンに対応すること

電話端末における高速データ通信が一般化した現在では、上記のポスターや公報、政見放送動画なども瞬時に手持ちのスマートフォンで視聴することが可能です。PCに拘らず、むしろスマートフォン対応を意識した掲載(レスポンシブデザインへの対応)を行うことで、容易に候補者情報へのアクセスが可能になります。

 

 
この稿を綴っている現時点では、いずれの自治体も実現には至っていません。
技術的に不可能な要素は一切ありませんが、もしも制約やハードルがあるとすれば、それは「前例がないから」その一点につきます。
あるいは、「抵触するおそれがある」という言葉が絶えず付随する、公職選挙法の曖昧さゆえでもありましょう。
そうした意味では、選挙におけるインターネット解禁はまだ発展途上にあると言えるでしょう。おそらくは、以下のプロセスを経ることで一気に進展する可能性があります。

 1)身近な政治家に、上記施策の実現可否をたずねてみる。
 2)自治体の選挙管理委員会等で検討の対象となり、見解が示される。
 3)総務省で「抵触」の見解がなされなければ、実質可能になる。
 
果たして、ネット選挙における運営サイド(総務省、もしくは各自治体の選挙管理委員会)のブレイクスルーは訪れるだろうか。何年先になるのか、あるいは何十年先になるかわかりません。
 
近くて遠い、ネット選挙の近未来。皆さんがお住まいの自治体では実現に踏み出すことができるのか、それを見守るのもまた一興かも知れません。
 
本稿をご覧いただいた有権者の皆様は、ぜひ地元の議員の方に訪ねてみてはいかがでしょうか。
また自ら発言することのできる議員の皆様、是非とも以上をご検討いただけると幸いです。

2017.5.5

「手が白く且つ大なりき非凡なる人といはるる男に会ひしに」


冒頭の短歌は、大正時代の歌人・石川啄木がある人物を詠んだものです。
 
その人物は生粋の歌人ではありませんが、啄木の一回り先輩世代の与謝野鉄幹・晶子夫妻とも交友がある。
更には、二十歳を前に著述家として一定の名声を手にしていました。
恐らくは文筆家として、啄木も自身初の詩歌集『あこがれ』に献辞を寄せたのでしょう。
 
一説によると、その刊行にあたっては短歌でも読んだ「非凡なる人といはるる男」に啄木は出版の助力を願ったと言われています。
 
男は名刺に出版社への紹介文を記し、面識のなかった無名の啄木に与えます。
それがきっかけとなり同書は1905年(明治38年)、改造社より出版されることとなりました。
詩集の献辞には、男への感謝がこめられています。
 
もっとも、男の啄木に対する対応は決して懇切丁寧とはいえず、後に自らの著作でも当時を振り返っています。
 
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いつごろであったか、やはり、市長時代に、石川啄木といふ少年が、私を訪ねてきたことがある。
未知の人であり、別に紹介状を持って来たのでもなかったが、面会すると「○○(男の名)に捧げる」という歌稿を示した。
恥しいことに、そのころ私は歌について全然無趣味で、石川啄木がどれだけの詩才をもってゐたかわからなかった。
何でも、歌などを作らないで、もっと有用な学問を勉強せよと、小言を言って帰した。
それから幾年かたって、市長を辞めたころ(明治45年6月。啄木はこの年の4月13日に死亡している)、朝日新聞紙上で「天才歌人、薄命の歌人、石川啄木」といふ記事を見た。
 
手が白く 且つ大なりき非凡なる人といわるる男と会ひしに
 
といふのは、私を詠んだ歌だといふことである。
今から考へると、あれだけの天才歌人に接しながら、なぜもう少し親切に待遇しなかったのかと、後悔の念が浮む。
 
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果たして、男の正体はいかに。
 

2017.5.1

芦田均日記「尾崎咢堂先生を訪ふ」

 
今年は1947年(昭和22年)の日本国憲法公布から70周年の節目を迎えます。
咢堂・尾崎行雄はわが国における二つの憲法、明治憲法(大日本帝国憲法、1890.11.29~1947.5.3)と現行憲法(日本国憲法、1947.5.3~)、それぞれの施行に立ち会った唯一の国会議員でもあります。
 
果たして尾崎の眼には、現在の私たちが享受している憲法の公布と施行はどのように映ったでしょうか。
尾崎は自らの著書『民主政治読本』において「明治憲法と比べて、数段立派な憲法である」と評しながらも、「しかし国家は、いい憲法があれば栄えるというものではない。もしいい憲法がありさえすれば国家が栄えるものなら、滅びる国家はない」と看破しています。
 
さて、日本国憲法の制定前後をめぐる動きの中でも貴重な資料のひとつに『芦田均日記』があります。
その中で、新憲法の施行を間近に控えた1947年4月、憲法改正特別委員会委員長の立場にあった芦田が尾崎行雄を訪ねる場面があります。 
憲法の是非や国体論に関しては人の想いもさまざまですが、あくまでも主義主張や信条を超えた「記録のひとつ」として以下に引用致します。

芦田均日記

 
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尾崎咢堂先生を訪ふ
 
五月三日の憲法施行式日の挨拶に国会側から出す人が見当たらないので尾崎咢堂を煩わす外なしと決して使者をもって依頼したが拒否された。 そこで四月二八日午前九時四十分、私は逗子風雲閣の裏門から咢堂翁を訪ねた。
 
応接間に通されて廊下で翁と対座した。見下した逗子海岸の風光はよろしい。然し応接間の障子は破れ、電灯のシェードも破れてゐる。禅寺の庫裡とも言ふべき有様だ。私は自分の心に贅沢心の潜むことを恥じた。
 
私はゴム管を通じて翁と談ったが、私のくり返しての依頼にも翁は頑として応じない。ついに令息の行輝氏が現れて、「唯今聞いていると芦田さんの話が尤もだと思います。お父さん、御受けになったら宜しいでしょう」という。
 
翁は「お前が出て断つて呉れると思ったら、反対のことをいふ」と抑えて、更に私に向って「この通り親と子供との意見も違う。世間はなかなか私の思う通りにならぬ」。
そう言って応諾の気色もない。そして「折角の御来訪であるから、今日一日考えて御返事することにしましょう。但し明日お答えすると言ふのは決して承諾するという意味ではありませんよ」と付け加えられた。
私はもうだめだと思つたが、これ以上仕方がないので令息に万事を依頼して其話を打ち切った。咢堂翁の談片を思浮かべるまゝに誌すと次の通りだ。
 
「私は日本の将来を悲観してゐる。占領軍が撤退したら内乱が続くのであろう。占領軍がいるのに政党等が争つていてどうなる」。
 
「憲法にしても今度の改正憲法が永く行われるとは思はぬ。だから憲法の施行が芽出たいとは感じられない。だからといつて施行式の席でそういふ話も出来ないではないか」。
 
「此際は挙国一致内閣を作るんだ。それ以外に手はない」。
 
「この話は誰にもしない話だが、実は私は陛下が憲法実施を機会に御退位になるのが本筋と考へる。この点を陛下に奏上したいと考へてゐるが、陛下は果して戦争の道義的責任を感じてゐられるであらうか。実は昨年以来内謁見を頻りにすゝめられて、仲介に立つ人もあるが、其点について確たる見通しがなければ奏上もできないし、仲介者にも此際内謁見を受諾するとは言はない所以だ」。
 
私は、陛下が道義的責任について充分御考へになつてゐると信じますと答へた。あゝそうですか、と翁は頗る「さもありなむ」顔付きであつた。
 
次に「共産党はまだまだ殖える。あれ程永い間政府にいぢめられたら、復讐心ももえるのが自然でしよう。尤も野坂君にはさような感じはないようだ」、と言はれた。
 
私は依頼の件は所詮駄目と感じて少々鬱陶しい気持で辞去した。半日の間雨にぬれ、坂道の危険を冒して何の得るところもなかつた。
 
翌二十九日、尾崎行輝氏から電話で翁が承諾されたと通知があつた。
私はホッとした。

2017.3.26

「咢堂が語る弟・行隆」

 尾崎行雄の書籍は当財団でも何冊か復刻を行っていますが、過去の著作に関しては「Google Books」などでもお読みいただけます。
 
尾崎行雄が家族に触れている著述はそれほど多くなく、最初の夫人・繁子や後の夫人・テオドラ、またわが子については幾つかの書籍で目にすることができますが、弟の行隆に関する記述は殆ど見られません。
1937年(昭和12年)に刊行された『咢堂自伝』によると、保安条例により東京退去を命じられた尾崎は3年ぶりに上海から帰って来た弟の行隆を伴い、1888年(明治21年)1月31日に横浜港を発っています。

その後アメリカを経由して尾崎はイギリスを目指しますが、この渡航は行隆にとっても人生の節目となったようです。
文中の「ジレット氏」は、シャーロック・ホームズ役として有名を馳せた俳優、ウィリアム・ジレットです。

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「英国行」

4月の末には、ワシントンはにわかに暑くなった。ニュー・ヨークに引き返したが、やはり暑くて毎夜眠れない。私は、殊に暑熱に弱いため、とても耐えられなかった。そこで、早く欧州へ行こうと思ひ、弟をニュー・ヨークに置いて、単身大西洋を渡った。
逐客の身となっても、尚この行に、弟を伴うことを忘れなかったのは、弟を自分の好い秘書に仕立てたいと云う考えを持っていた為である。私の頭には、その頃-今でもそうであるが-経国済民の志望よりほかに何物もなかったので、弟をも私附属の政治家に育て上げようと考えたのである。ところが、弟は文学が好きで、米国に来ると、私の考えには頓着なく、文学方面に向かってしまった。
あるいは、兄貴はとても自分を秘書に使うほどの大政治家にはなれまいと、見切りをつけたのかも知れない。

そんな訳で、私の渡欧後も独り米国に残って、文学研究に精進し、やがては劇団に身を投じて、舞台に立った事もある。
後には、米国屈指の名優ジレット氏に付従し、一生米国で暮らす事になり、今日でもなお米国に居る。
畢竟私が弟を使うほどの身分になれなかった為であろう。
(以下略)
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血を分けた兄弟が異国の地で生活をしているという事実は、尾崎行雄の対米観にも少なからず影響を与えたものと思われます。
ワシントンに贈った桜や、90歳を過ぎてからの最後の訪米も、弟という存在を意識することで新たな意味が生まれます。

Google Books『咢堂自伝』 
https://books.google.co.jp/books?id=sdgHL2dhEI4C

咢堂自伝 

2017.1.30

「大統領の椅子とCSR」

当財団ならびにリーダー育成塾「咢堂塾」の運営を長年にわたり支えて頂いているタカラベルモント株式会社(http://www.takarabelmont.co.jp/)。
同社の電動理容椅子はかつて世界シェア100%を誇り、現在でも世界のトップに位置付けられています。
先日ですが、民放メディアで同社の取り組みが紹介されました。
番組は2月2日までインターネット上でも視聴いただけますのでアクセス視聴いただけると幸いです。
 
http://www.mbs.jp/otonakai/

番組内でも取り上げられましたが、アメリカのバラク・オバマ前大統領が愛用しているシカゴの理髪店「Hyde Park Hair Salon」では同社のバーバーチェアが導入され、ホワイトハウスの執務室とならぶ「もうひとつの大統領の椅子」としても知られています。
執務室の椅子が「もっとも緊張を強いられる椅子」ならば、理髪店のそれは「もっともリラックスできる椅子」そう表しても差支えないでしょう。



(写真1枚目:米・シカゴトリビューン紙より。2枚目:英・インターネットメディア「COMPLEX」より)

[Chicago Tribune]
http://www.chicagotribune.com/news/opinion/commentary/ct-obama-portraits-chicago-homes-20170118-003-photo.html
[uk.complex.com]
http://uk.complex.com/style/2017/01/president-barack-obama-barber-zariff-interview

そんな同社の社会的責任に基づく活動(CSR)は、実に多岐にわたります。
そのうちの一つが、当財団理事・石田のブログでも取り上げた「旧真田山陸軍墓地の維持・整備」事業。
そしてもうひとつが、当財団のリーダー育成塾「咢堂塾」復興支援枠の後援です。
 
2011年に発災した東日本大震災や、昨年発災の熊本地震など、被害に対する物質的な支援や財源的な支援は政府や自治体の主導で進められています。
一方、そこに住まう人の心的な支援復興は、行政だけではままならないのではないか。
そういう声が財団の内外で上がり、咢堂塾では3年前の16期から被災地からの入塾助成を続けて参りました。
われわれ尾崎財団は2017年も、同社をはじめ後援・協賛企業の皆様とともに、咢堂塾やその他の活動を通じての災害復興支援を続けて参ります。
 
当財団のこうした取り組みは、多くの個人会員の皆様、また企業会員の皆様によって支えられています。
改めて日ごろのご支援に感謝申し上げると共に、後援企業の取り組みにも注目いただけると幸いです。
 

2016.9.25

「日米友好の晩餐会」

過去に財団ホームページでも紹介しましたが、尾崎行雄は1950年(昭和25年)春、元駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー、ウィリアム・キャッスルの両氏らが主宰する「日本問題審議会」の招きで生涯最後の訪米へと旅立ちました。

尾崎行雄 最後の訪米 

 コラム「尾崎咢堂を米国に招く」(http://www.ozakiyukio.jp/information/2015.html#0201)
  
ニューヨークでレストラン「都」を営む実業家、塚田数平氏の発意から実現した尾崎の招聘は、米国上院での記念スピーチやワルドルフ・アストリアホテルでの晩餐会の開催など盛大に行われました。
その歓待ぶりは、尾崎自身も次のような歌を詠んだほどです。

尾崎行雄 最後の外遊

 
夢かとも思へどさめぬもてなしに我等の幸をわれは怪しむ
  
 つい先日のことですが、財団収蔵の資料を整理していたところ、ニューヨークで開催された晩餐会の献立(メニュー)が見つかりました。
 このたび、尾崎自身が夢かと見まがうほどの歓待を演出したもてなしの数々を以下に公開いたします。
戦後の日米関係における雪解けのきっかけとなったテーブルに、しばし想いを馳せていただけると幸いです。 

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尾崎行雄翁 歓迎晩餐会 1950.5.24
 ワルドルフ・アストリア(ニューヨーク)

 

 
<食前酒>
 
Lobster and  Crabmeat Louis
ロブスターとカニのサラダ 西海岸風
 
Consomme petite Fermiere Tiny Cornsticks
コンソメの農婦風スープ コーンスティックパン添え
 
Hearts of Celery  Ripe and Green Olives
旬菜 採れたてセロリの芯と完熟オリーブ
 
Paupiettes of Sole
舌平目の包み焼
 
<Basserat de Bellefon 1943>
(ベスラ・ド・ベルフォン 1943年物(シャンパン))
 
Filet Mignon Rossini
牛フィレ肉のロッシーニ風(フォアグラソテー、トリュフソース)
 
Nest of Souffle Potatoes
ジャガイモのスフレ
 
Tiny Stringbeans Saute
サヤインゲンのソテー
 
Bibescot Glace New Waldorf Golden Rum Sabayon
ワルドルフ特製 ラム酒仕立てのムース
 
Demi Tasse
デミタスコーヒー



Facebookアルバム「尾崎行雄・訪米時の晩餐」

2015.2.1

「尾崎咢堂を米国に招く」


尾崎行雄は1950年(昭和25年)春、元駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー、ウィリアム・キャッスルの両氏らが主宰する「日本問題審議会」の招きで最後の訪米を行いました。
日本がサンフランシスコで講話会議に出席、国際社会への復帰を果たしたのは時の内閣総理大臣・吉田茂や大蔵大臣・池田勇人ですが、その前に尾崎が両国の雪解けを担う役割を果たしたことは余り知られていません。

当時の経緯は、意外な一冊から伺う事ができます。
『桑山仙蔵翁物語』(上出雅孝著、淡交新社刊)の1ページに尾崎をアメリカに招いた男・塚田数平氏のエピソードが収められています、その主要な個所(133~134ページ)を抜粋して皆様にご紹介します。

桑山仙蔵翁物語

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1950年(昭和25年)頃だった。「都」へきたお客の一人に、戦前、東京の米国大使館参事官だったデューマンという紳士があった。弟のお医者さんと二人で、日本食を食べに来たのだが、二人とも流暢な日本語を喋るので、塚田は如何にも親友を得たように悦んでお相手をしていた。

たまたま塚田が越後の出身であることを知ってデューマン氏が「日本の政治家で英国のチャーチルに匹敵しうる人物は尾崎行雄氏だ」と、当時すでに90歳を越えていた咢堂を絶賛した。

塚田は尾崎咢堂が若いころ、越後の新潟で新聞記者をしていたことも、よく知っていたし、日本における立憲政治の祖父と仰がれている咢堂の人格を尊敬していた……この人物をデューマン氏があけっぱなしで褒めたので、全く悦に入ったらしい。とうとう塚田は彼の貯めた金3万ドル余を投げだして、尾崎咢堂を米国に招待する計画をデューマン氏に実行してもらった。
塚田はこうすることによって、日米戦争で散々に痛めつけられた両国民をなだめ、日米親善の私的外交を助成しうると堅く信じていた。さらに大きく考えればこれは戦後まだ日本の要人たちが、何の手もうっていない時、アメリカに親善をよびかける第一声であった。
それを塚田が、デューマン氏の助言と協力を得て具体化したのだ。

尾崎咢堂一行5人の往復旅費や、ニューヨークその他の重要都市訪問費、ワルドルフ・アストリア・ホテルで一人前25ドル(現在の12,000円)の尾崎歓迎晩餐会を開き、約500名の米国紳士淑女を招待した費用など一切を塚田が払った。

これは大戦後まだ、ニューヨークでは日本政府関係筋や商社、銀行などの出先が少しもない頃だし、日系人もみな肩身せまく感じ、鳴りを鎮めていた時だったので、塚田の思いきったこの仕事はいまだに、多くの人々に深い印象となって残っている。

この催しについては、塚田がいっさいを完了したあとで、いろいろ回顧談をしてくれたのを聴いたり、また彼がやることを静観していた程度の知識しかないので、このぐらいしか話す材料がない。
「都の商売がよくなると、塚田は支配人として、その儲けを自由に使いこなし、1階、2階、3階の設備や飾りつけにも金をかけた。彼独特の趣味を生かし、日本気分を出すように改良した。

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『桑山仙蔵翁物語』は、尾崎財団会員の皆様がご利用いただける「咢堂文庫」に収蔵されています。


尾崎行雄記念財団「咢堂文庫」>>